2011年秋、死産という出来事が私たち夫婦に起こって、あの時のこと、今思い出そうとしても、記憶があんまりない。あれから3年。人間はとってもつらいことは忘れるようにできている、じゃないと生きていけないから、って聞いた事がある。あれは本当だね。
娘の成長日記を続けて書いていたので、それを読み返すと、「どうしていなくなってしまったの?」「これから毎日何をすればいいの?」と同じ質問ばかり書いていたことがわかる。
赤ちゃんの骨は細くて柔らかいから窯の温度が低い朝一の超低温で火葬すると良い。と葬儀屋。
少しだけ骨を残すことができた。それでも残ったことが嬉しかった。
たくさんの未来を一緒に過ごそうと思っていたのだけれど、骨壷だけが私の手に残った。葬儀屋に名前は伝えていないので小さい白い袋に「女児」という文字が入っていた。
退院してから、魂が抜けたようにベットから起き上がれない日が続き、区の妊婦サポートのお手伝いさんが引き続き来てくれたおかげで、少しずつリビングに出て話ができるようになっていた。でも、ほとんどはベットで泣いていたので、ベットの横に遺骨を置き、助産婦さんの計らいでとってもらった足型手形の写真を並べ、少しでも娘と近くにいる気持ちを感じていたかった。
そうすることしかできなくて。
私が死ぬまでベットの横に置いておき、死んだら一緒にお墓に入れてと夫に頼んでいた。
死産を経験した友人から「私たちの子供はお墓に入っているからお盆に毎年お参りに行っているんだよ、戒名もあってね」と聞いた。ジュースとか、お菓子も持っていくの。と彼女が15年前の死産を語ってくれたのは初めて。私たち友達も今まで聞けなかった。お墓に入ってるなんて知らなかった。お参りくらいすればよかったのに。友達として失格なことばかり。
そして、夫婦ででかける先があってもいいかもしれないと思えるようになった。
誕生日(命日)はお墓であらたまって話をしたり。。。したいな。普段は恥ずかしいけれど。
当時、誰かに「お墓に入れるものなの」「成仏できないでしょ」とか言われても納得はいかなかったと思う。離れ離れになることを受け入れる時間が必要だった。
自分でそれを感じるまで。
夫は何も言わなかった、待っててくれた訳ではないと思うけど、私に任せてくれてありがたい。
名前もつけた。名前ってまずみんな聞くよね。でも私には誰も聞いてくれなかった。
どうしてどうして聞いてくれないの?という気持ちで寂しさを感じたんだけど、そんな時、区のサポートさんだけが、、聞いてくれたの。嬉しくて涙がボロボロ出てね。
大事な人にだけ教えればいい、私たちだけが覚えていればいい、だってパパママが考えてつけた大事な名前だからむやみやたらに公開したくはない、と思えるようになった。
コロコロと情緒が変わったんです、この時は。
つづく
1975年生まれ。不妊ピア・カウンセラー。「コウノトリこころの相談室」を主宰。28歳に結婚後、妊活をスタート。人工授精、体外受精、10年以上の不妊治療では二度の流産、死産を経験。子宮腺筋症で子宮全摘。44歳で生後5日の養子を迎える。数々のメディアや、大学で講演活動を行うなど、実体験を語っている。これまでの体験を綴ったエッセー、夫婦共著「産めないけれど育てたい。不妊からの特別養子縁組へ」2020年9月出版(KADOKAWA)