東京では桜が満開ですね。
新しい年度がスタートし、大きな節目。先月は東日本大震災から5年、たくさんのテレビ番組で特集が組まれていました。日々、忘れていなくてもあの時と同じ季節が来ると、その時の風の匂いとか、風景が記憶を蘇らせることあります。特に日本は四季がハッキリしているので、より季節と記憶の関わりは深いようです。
私が死産したのは2011年。テレビで震災から◯年と告げられる度、震災のことと同時に妊婦生活と死産のことも思い出します。これからも震災から10年、20年と放送される度に一緒に思い出すことでしょう。
死産をした直後には、「生」と「死」について考えました。どうして私は元気に生まれ、心臓は休むことなく30年以上動いているんだろう・・・なのに、赤ちゃんの心臓はあんな短い間で止まってしまったの・・・と。
そんなこと毎日考えてました。日記にも毎日「どうしてどうして」と書いていました。
けど、これ、友達に言ったら理解不能の質問だし、頭がおかしくなってしまったのかと思われますよね。きっと友達は対応できず、鬱になったと心配して心療内科をすすめるかもしれません。
いまだ子供の死の話はタブーとされていることが多く、特に周囲と関わりのなかった胎児の場合は、周囲が当事者の悲しみを想像できず、「忘れなさい」「いつまでも引きずらないで」と言うことがあります。もちろんそこには、早く元気になってほしい、次のステップに進んでほしいという願いもあるかもしれません。
でも、感情を封じ込めることはできません。悲しみを押し込めて、その悲しみを忘れることができれば楽でしょう。語らずに時がいくら過ぎても、その悲しみはいつか吹き出てしまいます。
あの直後に比べると、私は驚くほど元気になりました。遊びに出てるし、笑っているし・・・あの頃の私はそういう姿を想像していなかったけれど。
快復したのは、5年という月日の力だけででしょうか?
私がしたことは、
ありのまま思いっきり泣く
ー2度の流産の時はひっそりとひとりで泣いていました。夫と悲しみを共有するということはしなかった。流産は嬉しいことではなく悲しいことというのはみなさん想像できることですが、流産の喪失感は軽視される傾向があり、「流産くらいみんなけっこうしてるよ」という反応などから、自分でもケアするほどではないと思っていました。そして結局は孤独感を味わったので、死産の時は、ありのままで我慢せず泣かせてもらいました。そんな姿を見て夫がどう思うかはわかりませんが、「妻が悲しんでいる」「妻はまだ悲しみを克服していない、感情をコントロールできない状況だ」というのは知ったでしょう。流産の時はすぐに立ち直ったと誤解されてました。
同じ体験者同士で語る
ー死産当事者カウンセラーのグリーフケア1対1と、グループセラピーを受けました。流死産を経験した人だけで語った時間が、不思議と心を癒してくれました。そこには同情はなく、かわいそうな人という目もなく、共感だけがありました。あなたの周囲の使える手段をたくさん使ってください。
自分でも自分を守る
ー極力他人に会うことは避けました。人は”何か気の利いたお悔やみの言葉を言わなければいけない”と気を使い、的ハズレな言葉を言うことがあります。励まし、よかれと思って・・・敏感な私にはそれらの言葉が心に刻まれてしまいそうで怖かった。親戚の集まり、友人のホームパーティ、お正月のご挨拶は控えさせてもらいました。
「死産前の私にいつ戻れるのでしょうか?」とグリーフケアで質問したことがあります。私はあの時何もわかっていなかった。死産から1ヶ月でした。カウンセラーの答えは「ノー」でした。はっきりと言ってもらえてよかったです。
多くの人は克服を、「赤ちゃんを亡くしたことを忘れる、なんとも思わなくなること」と誤解しがちですが、自分が産んだ子を忘れることはきっとこの先できないでしょう。そこをちゃんと理解していれば、死産前の自分に戻れなくても本当の意味の「克服」はできます。
ある本には、「克服とはゴールではなくプロセス」と書かれていました。
私もまだ克服のプロセスを歩んでいる途中です。
1975年生まれ。不妊ピア・カウンセラー。「コウノトリこころの相談室」を主宰。28歳に結婚後、妊活をスタート。人工授精、体外受精、10年以上の不妊治療では二度の流産、死産を経験。子宮腺筋症で子宮全摘。44歳で生後5日の養子を迎える。数々のメディアや、大学で講演活動を行うなど、実体験を語っている。これまでの体験を綴ったエッセー、夫婦共著「産めないけれど育てたい。不妊からの特別養子縁組へ」2020年9月出版(KADOKAWA)