虐待された子どもに寄り添う、これだけはブレない。

ホーム / いろいろ時事ネタ / 虐待された子どもに寄り添う、これだけはブレない。
消えた子供たち〜届かなかった「助けて」の声より

中学校に3年間通えなかった女の子は、「母親がタクシーに乗って帰ってきて、運賃もなくて、中学生の自分が話をするんですよ。それで全然知らないタクシーの運転手に怒られて、『自分、しっかりしいや』みたいなこと言われて。普通に考えたらおかしいじゃないですか。子どもが出てきて、すいませんって謝るなんて。なんで『どうしたの?』『大丈夫?』と声をかけてくれへんのやろなと思った。みんながみんな、自分のことばかり気にして生きてんねんな。誰も助けてくれへんねんな」と語っていました。(NHKスペシャル「調査報告消えた子どもたち〜届かなかった「助けて」の声より)

このほかにも信じられないエピソードがたくさん・・・一部抜粋します。

 ◆ケージに入れられ、紐でつながれていた3歳の男の子

 ◆家から一歩も出たことがなく、髪がのび放題、言葉が話せず、笑うことも泣くこともない、食事を犬のように食べていた4歳の子ども

 ◆自動販売機の裏で暖を取って寝ていた幼い兄弟

 ◆車上生活のすえ、後部座席からミイラ化した遺体で見つかった男の子

番組のナレーションのラストが、「助けを求める子どもたちの小さな声を聞き漏らさないでください。私たちがもう一歩踏み出すことを子どもたちは待っています」というものでした。

自販機の裏で暖を取り眠る子ども、車上生活のすえ座席でミイラ化し消えた子どもの声が届かない日本社会

子供と社会のほんの小さな接点がSOS
子供は少しだけ社会と接点があります、学校とか、近所を歩く姿とか、凍える日に裸足でベランダに出されている姿とか、学校の時間帯に毎日同じ服で公園で遊んでいるとか。その異変を見逃さないでほしい。小さなサイン。どうしたの?って子供の目線にしゃがんで一言聞いてほしい。
ミイラ化した子供…
悲しすぎる
ストレスを抱えてた母親の言い分、あるでしょうが、子供を叩く殴る、蹴るの肯定する理由にはなりません。
虐待防止活動をしている友人のひとりは「大人同士が会議などでお互いの思いをぶつけあい、でも意見が食い違っている時に叩きませんよね?」と会場にいる大人に質問をなげかけていました。「大人が大人をピシっとビンタしたりしたら、え?!って場が固まりますよね。なのに弱い存在である子供のことは叩いても周囲は不思議ではないのでしょうか」と。
しつけという言葉を都合よく使って、自分の思い通りにならないことを暴力でコントロールする行為です。しつけではありません。
スウェーデンの英会話の先生に子供に暴力をふるったことはあるか?と聞いたら「あるわけない」と即答だった。言うことを聞かない時はどうするの?と聞くと「話をする」
どうして叩かないの?はスウェーデン人には逆に不思議な質問のようで、「どうして叩くの?」と聞かれた。だねだね。人が人を叩くっておかしいよね。支配する人、支配される人ではないのだから。
子供の置かれている立場を想像できない人が多い
stock-photo-stop-child-abuse-sign-words-clouds-shape-isolated-in-white-background-121620967
私は虐待された子供たちと接する活動をして4年になります。
ある女の子が保護されるまでの話をしてくれました。
日常的に親に殴られていた、警察に助けを求めたけれどアザが無いと証拠にならないと言われた、親が呼ばれて自宅に帰ると「何をチクってるんだ!」とボコボコに殴られた、そのまま警察に再び行って「これで信用してくれますか?」と血だらけで言った。児童相談所に保護されました。
なんでそんな、、、、最初の警察も警察だし、彼女が逃げるために考えた最後の手段で、警察に信用してもらうために顔の傷を我慢したそうです。話を聞いてるだけで痛くて、つらかった。

虐待された子供に共通しているのはその子は何もしていない、悪くない。子供の苦痛を想像してみてください。弱くて小さくて、頼りが親しかいない、その親に日常的に殴られている子供のことを。
母親にもストレスがあるよ、社会がそういう状況にしているのよ、とか虐待を正当化しようとする人が必ず現れます、なぜでしょう。母親業は大変だという自分の立場を守る為でしょうか。
まずっ
虐待を正当化することではなく、虐待された子どもに寄り添うことをしたい、私は苦しい思いを打ち明けてくれた子供たちのためにも、これだけはブレたくない。
前の記事 «
次の記事 »